生野鉱山の話
かつては「佐渡の金、生野の銀」といわれるほど、生野鉱山は全国に名を馳せた屈指の鉱山町でした。生野で銀が見つかったのは807年といわれ、以後、時代とともに、ときの将軍の手厚い管理を受けました。生野銀山は、江戸時代に幕府の天領となり、町には奉行所が置かれ、江戸や京都から役人が赴任してきたといわれます。明治維新以後は我が国初の官営鉱山となり、30人を超えるお雇い外国人の鉱山技師たちがフランスから訪れ、当時の最新技術と莫大な資金が投じられ、日本の近代鉱山のモデルとなる大規模な開発が行われました。明治29年には三菱が生野鉱山の操業を受け継ぎ、さらに事業は拡大していきました。町には、鉱山関連の病院や福利厚生施設の建てられ、映画の上映やダンスパーティーなども行われていました。
そして、昭和48年は閉山となり、山の歴史は幕を閉じます。当時の面影は、いまも、町のあちこちに残り、坑道、水路、鉱石の輸送路、鉄道、レンガ造の鉱山施設、職員官舎などの近代化産業遺産や古い民家が残る懐かしい町並みを訪ねることができます。
そして、昭和48年は閉山となり、山の歴史は幕を閉じます。当時の面影は、いまも、町のあちこちに残り、坑道、水路、鉱石の輸送路、鉄道、レンガ造の鉱山施設、職員官舎などの近代化産業遺産や古い民家が残る懐かしい町並みを訪ねることができます。

